2018年2月28日水曜日

じいさんご飯を食べる

私はクラブをしていたので帰りが遅くなる。7時8時はあたりまえである。練習が7時ごろまであるのだから当然である。当時はクラブの時間にあまりうるさくなかったが、先輩からいじめられたりしなかったから、まだいい方である。

当然ながら、私としてはさっさと夕食と入浴を済ませて寝たい。翌日も朝練があるから、さっさと寝たいのだ。私が食事をしているとじいさんがやって来る。うちは6時から7時の間に夕食を食べるので、じいさんも夕食は食べたはずである。なのに、食べにやって来る。じいさんに見られながら食事をするのは、はっきり言えばイライラする。じいさんが何か欲しそうに見ているからだ。
「もう、食べたでしょ」 と言っても言うことを聞かないから、リンゴとかバナナとかを食べさせて納得させるとおとなしく引き上げていくのを知った。それで油断したのがいけなかった。



ある日8時ごろ帰ってきたので、母は食事の用意をしてくれたが、この日は汗だくだったので先に風呂に入ってしまった。その間に多分次のようなことが起こったに違いない。

(じいさんが夕食を食べにやってくる。そこには夕食が用意してある。ようやく夕食が食べられるとじいさんは喜ぶ。が上手く使えなくなったので、ポロポロまき散らしながら食事をする。食べこぼしというよりはこぼす方が多いからこぼし食べである。すぐにばあさんにばれる。孫が風呂からあがってきて何か言っているがどうせ自分には関係ない。)

テーブルの上を掃除するためには、先に床に散らばっているものを掃除しなければならない。テーブルからみそ汁の雫が落ちてくる。テーブルも掃除してそれで終わりかというとそうでもない。私が夕食を食べていないからである。そして、これが毎日繰り返されるのである。


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2018年2月26日月曜日

当時の老人病棟の実態

当時、親戚のおばあさんが老人病院に入院したのでお見舞いに行ったことがある。親戚のおばあさんの息子が医者だったので、当時としてはそんなにひどいところに入っていないと思う。
老人病院/こんなところである
それでも、今の病院の4人部屋より少し大きい部屋に、8人ほどがぎっしり入っており、隣のベッドの間のカーテンもなく、各々が勝手に叫んでいるような状態。認知症の程度に関係なく押し込んでいるようなところであった。当時は認知症に対して研究も進んでおらず、病人に対して、人格さえ認めない人も多く、ましてやプライバシーなど保護されていない。
食事は流動食紙おむつ、男女混合であったように思う。隣との間にカーテンなどないから、紙おむつの交換は衆人環境(その意識があるかどうか知らないが)で行われていたのだろう。それが普通であった。

それでも入院希望者は順番待ちであったのだ。家で認知症の人を介護するのは非常に困難なのだ。
認知症の介護となると誰かが24時間見張らなければならない。家庭でそれを行うとなると共働きは無理で、大抵は収入の少ない妻が仕事を辞めて介護することになる。食事から汚物の世話までやり、患者によっては怒鳴ったり殴ったり、その上家事までこなさなければならない。言っちゃなんだが実の父母でもないのにそんなことをしなければならないのだ。夫の協力もないのなら、やってられない。介護離婚という言葉ができたのもこの頃である。

老人病院は一度入院したら死ぬまで出られないと言われていた。誰も自分の親をそんなところに入れたくないのだが、自宅で介護ができないなら他に方法がなかったのである。
介護保険ができて随分と介護環境は改善されたが、未だに似たような施設はあるらしい。



2018年2月25日日曜日

認知症の治療薬

認知症の治療薬(輸入薬。詳細はリンク先。必ずリンク先を確認して下さい。)
効果は患者により変わります。

アリセプト:アルツハイマー型認知症薬。レビー小体型認知症薬としても承認を受けた。認知機能の低下を遅らせる薬で、古くから用いられている。アルツハイマーでは唯一全てのステージと予備軍に効果があると言われている。効果が現れるのに最低3か月かかるのと、副作用で怒りっぽくなるのが欠点。
アリセプト(Aricept)10mg

レミニール:アルツハイマー型認知症薬。日本では新薬扱いだが、世界では80か国以上が使っている。
レミニール(Reminyl)8mg

イクセロンパッチ:日本で用いられているアルツハイマー型認知症の症状の進行を抑制する薬の内、唯一の貼り薬である。
イクセロンパッチ18mg30枚

メマリー(エビクサ):中程度以上の症状で、唯一アリセプトなどと併用できる。
エビクサ(Ebixa)10mg 50錠

イデベノン:アルツハイマー型認知症、認識障害等の治療、脳機能サポート、エイジングケア。脳機能能力や認知力・記憶力を高める薬としても使用されている。
イデベノン45mg(Norwayz)

アルツハイマー型認知症ではかなりの種類の薬があるが、レビー小体型認知症ではアリセプトが承認されているだけである。足の筋肉がこわばって歩きづらいようなパーキンソン病に似た症状が出た場合は、パーキンソン病の薬を投与する。
脳血管性認知症では、原因となる脳血管障害の治療が優先される。

2018年2月24日土曜日

じいさん散歩に行く

ちょっと認知症が進んで来ると、じいさんは家を抜け出すことが多くなった。家人の目を盗んでこっそり出かけるから始末が悪い。まあ私はクラブに行ってるし、父母は仕事、弟は遊び歩いて、家にはばあさんしかいない。そのばあさんもじいさんのことを気にかけない。じいさんにしてみればこっそりと出かけるチャンスは多い。
認知症の事情を知っている近所の人が、じいさんを見つけるたびに、
「おじいさん。散歩に行くんですか?」
と声を掛けてくれる。ばあさんよりよっぽど頼りになる。
親切に連れて帰ってくれる人もいたし、連絡をくれた人もいた。
大抵はそんなこんなで家に帰ってしまう。

しかし、近所の人の目がいつもあるとは限らない。そんなときはそのまま、車の通る道まで出てしまう。車の通る道と言っても、実際にはめったに車が来るわけではない。なにしろ田舎なのである。もっとも、最近は田畑が住宅地化したので、少しは車が増えたようではある。

ばあさんは、
「じいさんがいなくなったから探してこい」
い言う。私が家にいるときは自転車で探しに行く。じいさんはとぼとぼと歩くが、意外と遠いところまで行っていることがある。

じいさんは運のいいことに車に轢かれることもなかった。




2018年2月23日金曜日

姫路の話

じいさんは姫路生まれであるが、4人兄弟の4番目であったため家を出た。昔の家ではよくあることである。実家は大きな家だったらしく、たくさんの小作人を使って田畑を作っていたらしい。何十丁(町)かの田んぼと山が4つか5つかと言っていたが、1丁(町)がどのぐらいの大きさか分からんので、私は「ふうん。そりゃすごいな」とか適当な返事をしていた。1丁(町)が0.99ha、すなわち約1haと知ったのは随分後のことであり、どれだけの田畑を持っていても興味がなかったのである。

うちの家系は姫路の殿様から苗字帯刀を許された由緒正しい家柄だと言っていた。姫路の殿様が本多忠刻で名君だったとは聞いたものの、千姫の話が出て来ないので、どうも嘘くさい。よく考えればたかだか農民じゃないか。きちんと年貢を納めてたので苗字帯刀を許されたのと違うんかなあ。農民から見れば光栄なことでも殿様から見ればどうでもいいことなんていくらでもある。苗字帯刀を認めたところで殿様は損も得もないのである。母は今でも苗字帯刀とか言ってるが、実際に本家に行ってみるとそんな話は出て来ない。だいたいが、本家と付き合いがあるのが私だけなのに・・・。

さて、じいさんであるが、認知症が入ってくると姫路の話ばかりをする。私が何か話をしていても、いきなり「姫路の家は・・・」と割込んでくる。私はこれを「じいさんのカットイン」と呼んでいた。いくら止めても効果なく、息継ぎの間にもカットインしてくる。「川があってな・・・」何の話か理解できない。どうも近くを流れていた夢前川のことらしい。続けて「街道沿いにな・・・」山陽道のことらしいが姫路のどこを通っていたのか知らない。とにかく軽度認知症のじいさんの話は謎である。何を言ったのかはすっからかんと忘れてしまった。本家はまだ姫路にあるので行った折にそのような話をしてみたが、首をかしげておられた。(初めて本家に行ったのは中学3年の時である)

姫路城


2018年2月22日木曜日

じいさんと太平洋戦争

じいさんがボケかけた頃、私は中学生だった。何回か太平洋戦争の話を聞いたことがある。今伝わっていることとはかなり違うが、従軍慰安婦も強制労働も問題となっていなかった時代である。じいさんは朝鮮のとある鉱山の管理をしていたらしい。確か市役所に勤めていたが、戦争のために他の企業の人員不足のために駆り出されたらしい。官民一体となっていいかげんな人事をやっていたようだ。

私が言うのもなんだが、じいさんは大変いい人だった。じいさんの鉱山では休憩や休日も与えていたし、給料もそれなりに払っていたらしく、問題も起きなかった。但し、他の鉱山に比べればの話である。働いているのは朝鮮人(とじいさんは言っていた)ばかりで日本人はいなかった。この頃は朝鮮半島に住んでいた人は朝鮮人と言っていた。韓国という国がなかったのだから当然である。

日本が敗戦となったとき、じいさんのところで働いていた朝鮮人は、率先してじいさんを港まで送ってくれたらしい。それでじいさんは日本に帰ってこれたが、過酷な労働をさせ給料も払わなかった日本人の管理者は軒並み殺されたと言っていた。

引揚船(舞鶴)


関係ない話である。
ずっと後になって、父やばあさんから聞いた話なのだが、朝鮮の港では子供は売り飛ばされ、女は犯されということがずっと起こっていたらしい。日本に帰ってきて堕胎数が激増して、産婦人科は寝る間もなかったと聞いた(大袈裟ですが)。

父は満州とソ連の国境にいて前線で戦っているといっていたが、実は軍の経理や物資調達の業務だったらしく、一番後ろにいたらしい。一番逃げやすいところにいたのと、実際は戦わずに逃げている間に敗戦となったため、戦死せずに済んだ。父は従軍慰安婦については、「俺のところにはいなかった」といっていたし、「朝鮮の日本軍は朝鮮人やった」とか「売春宿はどこにでもあった」とも言っていた。日本でも売春OKの時代だ。月給300円の売春婦がいてどうだというのだ。(初任給50円の時代、今でいうと月給120万円ぐらいかな)

じいさんもばあさんも父もみんなあちらの世界へ逝ってしまったので、真実はわからないが、こういった話を集めるような調査もせず、金を払い続ける政治家は自分の家を売ってでも韓国に金を払って頂きたい。私は自分の親の言うことを信じるので、歴史の真実は韓国にも日本にもないと思うからである。

まあ、介護とは関係ないけどね。


2018年2月21日水曜日

パンを買いに行って下さい

私がまだ小学校の高学年の頃である。いきなり1960年代の話になって申し訳ないが、あまり気にすると将来、良いことがおきないぞ。

じいさんは非常にいい人柄で、毎朝、食パンを買いに行ってくれた。それがだんだんと私たちに都合よくなってきた。
朝食だから食パンだけでいいのだが、
「菓子パンを買って来たらあかんで」
と言うと必ず菓子パンを買ってくるようになった。最初は孫が菓子パンを欲しがっているから買ってくるのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。

まだしかし老人ボケの初期というぐらいである。

当時は、認知症という言葉自体がなかった。その前は痴呆症と呼ばれていたが、痴呆という言葉が侮蔑的であるということで認知症という言葉ができた。1970年代前半は痴呆症という言葉も一般的でなく、単に老人ボケとか恍惚の人とか言われていた。(今ではボケと認知症とは意味が違うが当時は同じ)

この頃は特に介護の必要はなかったのである。

なお、現在ではこの段階で認知症の進行を遅らせる薬があるが、当時はもちろんそんな都合のいいものはない。

食パンである。これを買ってきて欲しいのである。


菓子パンである。私はこちらの方が欲しいのである。






















私の家の家族構成

当時、私の家は6人家族であった。私の父母と父方の祖父母、弟と私の6人である。
祖父は認知症となったこの話の主人公である。

父は次男であったが、何故かじいさん・ばあさんと同居していた。次男であるからにはお兄さんがいるのだが、年に1回ぐらいしか親の顔を見に来なかった。私の叔父とはいえ親不孝な輩である。数年前にお迎えが来て旅立った。

話とは関係ないがこの人の奥さん(私の義理の叔母)は何かと口先を突っ込んで話をややこしくするため「魔女」と呼ばれていた。父のお兄さんが亡くなった後、1年ぐらいで「魔女」にもお迎えが来て旅立って逝った。

父はばあさんと非常に仲良く、早く言えば「マザコン」であった。毎朝ばあさんにネクタイを結んでもらっていたが、冬彦さんほどではなかったと思う。

当然ながら母はそれが気にいらなかったのだろう。なにかと理由をつけてパートに出て、ばあさんと顔を合わせないようにしていた。弟はまだ小学生~中学生だった。

何かあると私の学校に電話がかかってきた。やっかいなことである。


2018年2月20日火曜日

1970年代前半の社会情勢について

1970年代前半の世界的な出来事は、1973年に起こった(起こした?)湾岸戦争の影響で原油価格が高騰し、第一次オイルショックが起こったことである。これに端を発したインフレーションで国家公務員の初任給も、1970年3万円そこそこだったのが、1975年8万円にまで上がった。他にどんなことがあったのか軽くあげておこう。記憶の中で軽くご無沙汰していた人もおられるだろう。できるだけウィキペディアや公式サイトにリンクさせておくので思い出して下さい。

1970年:日本万国博覧会(大阪万博)開催よど号ハイジャック事件初の歩行者天国
1971年:ボーリングブームマクドナルド1号店銀座に開店:カップヌードル発売
1972年:札幌オリンピックあさま山荘事件沖縄返還パンダ来日新幹線岡山まで開通
1973年:江崎玲於奈ノーベル物理学賞受賞第一次オイルショックハイセイコーブーム
1974年:アメダス運用開始長嶋茂雄引退ベルサイユのばら連載開始
1975年:新幹線博多開業沖縄海洋博

とまあ、このような年である。

後で関係してくるが、ちょうど私の中学・高校の頃である。


日本万国博覧会会場